新宮神社野外展は、修了しました。
水菓子差し入れてくれた、I ご夫妻他、見に来て下さってありがとうございます。
初日日曜日には、げなげな市と、同時開催でしたが色んな方が来てくれたと喜んでいます。
野外展らしく無かったのかもとか思いつつ、でもやはり、
屋内とは違う雰囲気で展示出来ました、又。いつか!
以下 展示作品です。神社正面の右手にある、古い建物の縁を使って展示です。
作品タイトルは 『インスタレーション<座標>』
楽焼き玉子は、individual=個人(又はこれ以上分けられない存在=作家の平野啓一郎氏
による解釈)を、象徴したもの。薪窯で焼いた四角いのは椅子。
椅子に座る玉子と座らない玉子を交互に並べました。思わせぶりな感じもしたりして、、
どうなんだか、、とは、思ったけれど、受け取り方に制限はなく、従って展示の方法にも
方向性というよりは並べたリズム感を、意識したものです。
なんで、これ以上分けられないものなのか。これ迄にも何点か創って来た作品の根底のテーマ
として、物質の現れた形、(私達の目に映っている形の事)や、あるいは心の作用についても、
一見とても複雑そうに見えている、あるいは現れている形もバラバラにしてみれば、
実はとても簡単シンプルな形をしていて、組み合わせる、あるいは絡み合ってしまった結果、
とても複雑になってしまった事柄達も、引きはがして並べてみたら、ホントはすごく
単純なものなのではないかと、思う。。。という様なことがあって、
それらを、もう一度組み替えて、新たな自分の形を模索してみたいということなのです。
そこで、自分にこだわってしまうところが、とても狭いという事だとは、思ってみるのですが、、
作品は自分の中から生まれて来るものではあるけれど、もっと自分以外の人や物や、
現象と共有出来る普遍的なものである必要を、思いながら、なかなか手放せないでいる。
ということは、詰まるところ、私は「わたくし」を、見つめて「わたくし」を振り回す性格
でありつつも、実は「わたくし」を、おおっぴらに表現して見せびらかす事には、
抵抗があるのだという事。そんなコッパズカしい事は出来ないし、、と、かっこつけているのだろう。
だから、普遍性などという、正体不明なものを求めてしまう。捨ててしまえ、そこからしかきっと
始まりなんてないのだと、思う事もあるけれど、そういう初期的ダサさを超える迄の、
永く苦しい時間、退屈な自分との対話がバレる事が、恥ずかしいのだ。
玉子を使って、様々な展示を試みる作品のバージョンno.4
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